この震災から何を学ぶべきか

鹿児島県建築協会が報告書
被災地の現地視察とボランティア活動

鹿児島県建築協会は、平成23年7月27日から31日までの5日間にわたって、東日本大震災の被災地である岩手、宮城両県と液状化被害の発生した千葉県の現地視察とボランティア活動を実施した。このほどその報告書をまとめたので、要旨を紹介する。

同協会の現地視察の目的は、復興に関わっている関係者からレクチャーを受けることで、災害時の体制づくり、都市防災の強化・発展のための手法を、またボランティア活動に参加することでその重要性や運営の手法をそれぞれ学び、それを通じて協会と会員がこの災害を教訓として活かし、県・市町村との災害協定をより効果的・現実的なものとすることにある。

参加者は深野木信(深野木組)、牧迫英敏(牧迫建設)、上谷田浩幸(上谷田建設)、福元昭博(福元昭建設)、小林省三(三光建設)の5氏。

岩手県は中村孝幸(和見設計舎)、宮城県は井上誠(宮城大学教授)、竹内泰(宮城大学准教授)、阿部正(ノーマルデザインアソシエイツ)の各氏の協力を得て、岩手県の住田町、大船渡市、陸前高田市、宮城県の気仙沼市、仙台港、南三陸町、石巻市、千葉県の浦安市を視察した。

○戸建ての木造仮設住宅
27日は鹿児島から岩手県盛岡市に入り、同市泊まり。翌28日に県南部の住田町から視察、同町は津波の被害を受けていないが、隣接の大船渡市などの被災者を受け入れるために建設した木造仮設住宅を見学した。

プレハブ応急仮設住宅は、床下が高く、玄関前の段差が大きい、部屋が狭い、収納スペースが狭い、夏は暑く、冬は寒いなどの問題点がある。
同町は震災から4日後の平成23年3月15日、町内に100戸の木造仮設住宅を建設した。県の指示を待たずに建設したことから、県からお叱りを受けた仮設住宅は約9坪のプライバシーが守れる戸建て。吸湿効果が高い木材で断熱材を挟む3層構造にしており、夏や冬も過ごしやすい。
県内の木材を町内の工場でプレカット、半日程度で組み立てることができ、1チーム5人程度、1日5棟の建築が可能。建築費は1戸当たり約250万円。
プレカット工場とその子会社は職員約200名の給与を削減して、被災者を含む75名の職員を雇用するワークシェアリングも開始、雇用と地元材活用で経済復興も担った。仮設住宅に対する考えを変えるばかりでなく、森林を多く有する市町村の1つの方向を示している。

○経験を活かした地区
続いて大船渡市の吉浜地区に入った。同地区は行方不明者が1名と被害が比較的少なかったが、明治三陸津波(明治29年)のあと、低地にあった集落を高台に移し、低地は田んぼに改造している。裏山に逃げる避難路も確保されており、それが災害を少なくしている。

吉浜地区の歴史は高台移転や避難道路整備など、災害被害を抑える減災社会の考え方を教えている。

大船渡市全体では3500棟を超す建物が被害を受け、海岸から200メートルの越喜来小学校は建物の基礎からえぐられたが、平成22年12月に校舎から直接高台へ逃げるための避難通路を確保したことと、日頃からの避難訓練によって、被害を出さずに済んでいる。

その一方で、至るところに過去にあった津波の高さを示す表示があり、そのために「その高さ以上に逃げれば安心」という認識につながり、それが今回の被害を大きくしたという話を聞いた。被害を小さく抑えるための建築計画、都市計画が必要であることを痛感した。

陸前高田市は、市庁舎をはじめ全世帯の7割以上が被害を受けた。今後、高台移転が検討されるだろうが、2万人が移転できる高台が確保できるか疑問が残る。

5階以上の高い構造物を計画的に配置し、都市公園などを高台に人工的につくる複合的なやりかたで、いかに減災につなげるかを模索するほうが現実的ではないかと感じた。

宮城県気仙沼市は、津波被害に加え、火災で1万棟以上が焼失。岩手県内に比べ、がれき撤去が遅れているように感じた。

陸前高田市と同様に地盤沈下が大きく、地盤沈下が復興の大きな障害となることは間違いない。地盤沈下は地震、津波に次ぐ3つ目の被害と思える。

○経験値の怖さ
29日は仙台港、南三陸町、石巻市を視察。この間に宮城大学の竹内泰准教授のレクチャーを受けた。
仙台から三陸自動車道を通り南三陸町へ向かう。

この道路と鉄道の盛り土が堤防となって、その内と外で被害に大きな差が出た地域でもある。この「二線堤」の機能充実も復興計画の検討課題になるだろう。

○不安なとき、人は集まる
南三陸町は、防波堤が倒壊し、学校も漁業施設も無残な姿をさらし、住宅は基礎を残し流失している。骨組みだけとなった防災対策庁舎の前には、最後まで町民に避難を呼びかけ、命を落とした女性職員を悼み、千羽鶴とさまざまなメッセージが寄せられている。涙で読み進めることができない。

同行している竹内准教授らは「海には防波堤、防潮堤が整備され、街から海が見えなくなり、海への恐怖が薄らいだ。鉄筋コンクリートの津波避難ビルもあるということでほとんどの人は安心していた。経験値の怖さ」だと言う。

南三陸町志津川地区に設けられた番屋を訪れた。宮城大学の学生が被災地で近辺調査をしたところ、漁業者の「仲間の集まる番屋がほしい」という声を聞き、その実現に向けて学生が行政との調整、図面作成、材料の手配など困難を1つひとつ克服。施工には全国の学生が参加して完成に結びつけていた。

視察に同行した阿部氏は、人は不安なときには、安堵と情報を求めて集まる、地域コミットがしっかりしている街づくりを目指したい、と言う。

30日は、仙台駅からボランティアバスに乗り、再び南三陸町へ向かい、志津川地区で民家のがれき撤去のボランティア活動を行う。バスの中で鹿児島県人の20代の青年と話をすることができた。鹿児島県人の誇り、日本人の「絆」を見た気がした。

31日は千葉県浦安市の液状化被害地を視察。改修工事を進めている住宅があり、基礎と土台の間をジャッキで持ち上げ、傾いた家屋を水平に戻す工法や、基礎の周りを掘り、鋼管杭を圧入し基礎ごと建て直す工法で改修していた。

浦安市では、10メートルの杭打ち施工した住宅は被害が少なかったという。液状化は繰り返す可能性が高いことを考えると、埋め立て、盛り土などの地盤対策は人任せにできないという問題を改めて考えさせられた。

○防災から減災へ
今回の規模の津波が来たとき、防波堤、防潮堤では防御できないことが明白になった。「防災」から「減災」へハードもソフトもシフトする必要がある。「防御」から「避難」への対策、避難情報の発信・受信方法の充実が求められる。

「津波が来たら、肉親にかまわず、各自がてんでんばらばらに高台へ逃げろ」という意味の「津波てんでんこ」という言葉を聞いた。教訓として伝承し続けなければならない言葉だ。被災地には「絆」が生まれていた。絆が深まるとき復興への「希望」が見えてくる。被災地にはそこに縁のないボランティアが出現し、接着剤、潤滑剤となり、地域の絆を育む。彼らは自律的なコミュニティーを形成し、縦横のつながりをつくり、復興への「希望(道筋)」となっている。彼らが地域に戻ったとき、その地域の活性化のけん引役になるだろう。